遣隋使(けんずいし)が派遣されたのは、隋(中国)の仏教や政治等の学問を学ぶためです。
今日、日中友好・日中交流が叫ばれていますが、遣隋使は、まさしくその先駆けのような任務でした。
1回目 西暦607年7月3日 小野妹子、他約50名。翌年4月、隋の使者、裴世清(はいせいせい)と共に帰国。
2回目 西暦608年9月11日 小野妹子、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、他8名。
20年以上滞在。
3回目 西暦614年 犬上御田鋤(いぬがみのみたすき)、他
以上3回が、一般に言われる遣隋使ですが、隋の記録と日本の記録を合わせると、遣隋使は、4回説、5回説、6回説があります。 しかし、今のところ、確定されたものではありません。
「隋書」には、「600年 是年倭国王 使を随に遣わす」という記述があります。この記述が正しいとしても、正式な訪問では なかったのではと推測されています。現在の外交でも見られる、事前の調査訪問ではとも考えられます。また、小野妹子は隋に渡って おりません。
倭国王の名は、阿母多利思比狐(あめのたりしひこ)、別名、天王(あめこみ)であると記述されています。
「隋書」の「帝紀」と「東夷伝倭国状」、「日本書記」の「推古紀」が派遣回数と年代を研究 する上での資料になっています。
大阪の難波津という港から隋に向けて出航されたとなっていますが、その難波津が何処であったかという事は、 未だ確定されていません。難波津の正確な位置というのも、歴史的に興味深いところです。
遣隋使の出発の様子は、東京国立博物館所蔵の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」で、見る事が出来ます。
船の長さは、40〜50メートルと記されています。
通訳:鞍作福利(くらつくりのふくり)
その時代の文化・技術・品物の取得等、現世ご利益的な側面が主だった物と思われますが、その後の遣唐使へと繋がり、今日までの 日中交流の礎を築いたと言えるでしょう。
小野妹子の生きた時代の、直接の文献は殆どないので、「隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)」はとても貴重な
資料です。
正確には「隋書」の「倭国伝」であり、「帝紀(ていき)」と「東夷伝倭国状(とういでんわこくじょう)」からなります。「隋書倭国伝」
は略紀であります。
大業三年、其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子、
致書日沒處天子、無恙、云云。帝覽之不ス、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。
「隋書倭国伝」より抜粋。
日本 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」
煬帝 「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者有り、復たもって聞する勿れ。」
日本書記は日本に残されている、唯一の遣隋使の記録といえます。
603年(遣隋使開始の4年前) 十七条の憲法が制定される。
607年(遣隋使開始の年) 法隆寺建立。
隋は、朝鮮北部の高句麗(こうくり)と戦争中。
当時、日本は「倭の国」と呼ばれていました。
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1400th Anniversary
遣隋使1400周年記念