小野妹子 日出づる処の天使 小野妹子 日出づる処の天使

小野妹子.org 注釈集

飛鳥時代(あすかじだい)
 6世紀の終わり頃から8世紀の初め頃で、奈良県の飛鳥地方に朝廷が置かれていた時代。

小野妹子の子の伝承
 編集者の家の伝承で、西暦587年、既に八男がいたとされています。小野義持といい、この年の丁未の乱(ていびのらん)に加わっています。

敏達天皇(びだつてんのう)
 第30代の天皇。欽明天皇の第二皇子にあたる。在位は西暦572年4月3日〜西暦585年8月15日。
 小野妹子の祖父にあたる。小野妹子の父、春日皇子(かすがのみこ)の父である。

煬帝(ようだい)
 隋の第2代皇帝。569年〜618年。

高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)
 渡来人の子孫。(執筆中)

犬上御田鋤(いぬがみのみたすき)
 最後の遣隋使であり、最初の遣唐使でもある。犬上三田鍬と書かれることもある。

難波津(なにわつ)
 難波津は、古代、大阪が難波(なにわ)と呼ばれていた時代に栄えた港です。正確な場所は判っていませんが、難波宮(なにわのみや)からさほど離れていなかったのではないかと考えられます。現在の大阪市中央区の高麗橋付近、同じく三津寺町付近、北区の天満橋天神橋付近等の説があります。

藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)
 明治時代の経済界、政界を動かした功労者です。現在まで存続するような数々の大企業の創立に携わりました。また、数々の慈善事業や学校創立等に寄付を行い、社会に貢献しました。贅を極めた、大阪市都島区網島(あみじま)の藤田伝三郎邸は、藤田美術館等として、現在まで残されています。
 藤田伝三郎=藤田傳三郎

科長神社(しながじんじゃ)
 大阪府太子町にある神社。式内社(しきないしゃ)(平安時代の延喜式神名帳に記載された神社)です。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子、級長津彦命(しながつひこのみこと)と級長津姫命(しながつひめのみこと)を合祀。

男性で「子」が付く名前
 当時は、男性で名前に「子」を付ける慣習があったようです。孔子、孟子等、中国からの影響が大きいようですが、「子」は男という意味です。現在良く使われる名前の「○男」「○夫」「○雄」と、同じ使われ方です。
現在でも、「帰国子女」という言い方をしますが、この場合の「子」は男子生徒、「女」は女子生徒という意味ですので、僅かながら、飛鳥時代の言葉の意味が、現在まで継承されていると言えます。
 男性で名前に「子」の付く人物 〜 蘇我馬(そがのうまこ)、中臣鎌子(なかとみのかまこ)=藤原鎌足

住吉大社(すみよしたいしゃ)
 遣隋使、遣唐使が、出航の前に立ち寄ってお参りした神社で、航海の神様として知られています。御祭神は、底筒男命(そこつつのをのみこと)、中筒男命(なかつつのをのみこと)、表筒男命(うわつつのをのみこと)、神功皇后=息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)です。全国の住吉神社の総本宮でございます。大阪市住吉区に御鎮座されており、地元では「すみよっさん」の愛称で親しまれています。

隋書倭国伝(ずいしょわこくでん) 全文
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日、 其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、 在會稽之東、與儋耳相近。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓・靈之間、其國大亂、遞相攻伐、 歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國、其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人、 給王飲食、通傳言語。其王有宮室・樓觀・城柵、皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊梁、代與中國相通。開皇二十年、倭王姓阿毎、 字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、倭王以天為兄、以日為弟、天未明時、出聽政跏趺坐、 日出便停理務、云委我弟。高祖曰、此太無義理。於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。 内官有十二等、一曰大コ、次小コ、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。 有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾男子衣裙襦、其袖微小、履如屨形、 漆其上、繁之於脚。人庶多跣足、不得用金銀為飾。故時衣幅、結束相連而無縫、頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋其王始制冠、 以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有○○、竹為梳、編草為薦、雜皮為表、縁以文皮。有弓矢刀○弩○斧、 漆皮為甲、骨為矢鏑、雖有兵無征戰。其王朝會必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬、其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、 無財者沒身為奴、自餘輕重、或流或杖、毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓以弦鋸其項、或置小石於沸湯中、令所競者探之、 云理曲者即手爛、或置蛇甕中令取之、云曲者即螫手矣。人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊、樂有五弦琴笛。男女多黥臂、點面文身、沒水捕魚。 無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字、知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同、好棋博・ 握槊・樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少、以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、 藉以檞葉、食用手餔之。性質直有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相ス者即為婚、婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見、 婦人不淫妒。死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞、及葬置屍船上、陸地牽之、 或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。 新羅・百濟皆以倭為大國多珍物、並敬仰之、恒通使往來。大業三年、其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法、 故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。帝覽之不ス、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、 勿復以聞。明年、上遣文林郎裴清使於倭國、度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、 又東至秦王國、其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小コ阿輩臺、從數百人、 設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多○、從二百餘騎郊勞。既至彼都。其王與清(相見、大ス曰、我聞、海西有大隋禮義之國、 故遣朝貢、我夷人僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見、今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。清答曰、皇帝コ並二儀、 澤流四海、以王慕化故、遣行人來、此宣諭。既而引清就館。其後清遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。於是、設宴享以遣清。 復令使者隨清)來貢方物。此後遂絶。
(フォントにない文字があり表記できない個所があります。)